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アイガー北壁——「死の壁」攻略の歴史

アイガー北壁——「死の壁」攻略の歴史

アイガー北壁とは何か

スイス・ベルナーアルプスにそびえるアイガー(標高3,970m)。ユングフラウ、メンヒとともに「ユングフラウ三山」を構成するこの山の北側には、高さ約1,800mにおよぶ巨大な岩壁がそそり立っています。これがアイガー北壁(Eigernordwand)です。

マッターホルン北壁、グランド・ジョラス北壁とあわせて「アルプス三大北壁」と称されるこの壁は、ドイツ語で「北壁(Nordwand)」の頭文字をもじって「Mordwand(死の壁)」とも呼ばれてきました。脆い石灰岩で構成された壁面は落石が頻発し、天候の急変にもさらされやすい。1930年代、この壁の初登攀をめぐって繰り広げられたドラマは、アルピニズム史上もっとも壮絶な物語の一つとして語り継がれています。

最初の挑戦と犠牲——1934〜1935年

1934年——最初の犠牲者

記録に残るアイガー北壁への最初の本格的な挑戦は、1934年のことでした。ドイツのW・ベックとG・レーヴィンガーの2人が北壁に取り付きましたが、標高約2,900m付近で滑落し、命を落としました。これがアイガー北壁における最初の犠牲者となりました。

1935年——「死のビバーク」

翌1935年8月、ミュンヘンの登山家マックス・セドルマイヤーとカール・メーリンガーが北壁に挑みました。2人は直上ルートを選び、2日目には第2雪田まで到達しましたが、そこで猛烈な嵐に捕まりました。

グリンデルワルトの村からは、望遠鏡を通じて壁に張り付く2人の姿が見守られていました。嵐が3日間続いた後、2人の姿は動かなくなりました。約1か月後、飛行機から第3雪田付近で遺体の一つが確認されます。この地点は以後「死のビバーク(Todesbiwak)」と呼ばれるようになりました。

壁の上で命を落とす登山家の姿が、ふもとから望遠鏡越しに「観戦」された——この事実が、アイガー北壁をめぐる挑戦に独特の緊張感と悲壮感を与えることになります。

1936年の悲劇——4人の若者の死

ナチスの影とオリンピック

1936年はベルリンオリンピックの年でした。ナチス・ドイツ政権は国威発揚の手段としてアルピニズムに注目し、アイガー北壁の初登攀を成し遂げた者にはオリンピックの金メダルを授与するとまで宣言しました。この政治的な圧力が、若い登山家たちを壁へと駆り立てた一因であったとされています。

4人の挑戦者

1936年7月、2つのパーティが北壁に取り付きました。ドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、そしてオーストリアのエドゥアルド・ライナーとヴィリー・アンゲラー。いずれも20代の若く優秀な登山家でした。

2隊は壁の上で合流し、ヒンターシュトイサーが第1雪田の下にある困難な岩壁を、振り子のようにロープを使って水平に横断する高度な技術で突破しました。このルートは後に「ヒンターシュトイサー・トラバース」として登攀史に名を刻みます。

撤退、そして絶望

しかしアンゲラーが落石で負傷し、4人は下山を決断します。ここで致命的な問題が発覚しました。登りの際にトラバースに張ったロープを回収してしまっていたのです。氷で覆われた岩壁を逆方向にトラバースすることは不可能でした。

4人は別のルートで下降を試み、ユングフラウ鉄道のトンネル出口(アイガーヴァント駅の坑道口)を目指して懸垂下降を繰り返しました。しかし7月21日、懸垂下降の最中に雪崩が襲いかかります。ロープから外れていたヒンターシュトイサーは壁の下まで投げ出され、アンゲラーも岩壁に叩きつけられて死亡。ライナーはロープの圧迫で窒息死しました。

トニー・クルツの最期

唯一生き残ったクルツは、凍傷と極度の疲労に耐えながら一夜を壁の上で過ごしました。翌7月22日、トンネル坑道口から出てきた救助隊がクルツの声を聞きます。救助隊はわずか数メートルの距離まで近づきましたが、オーバーハング(張り出した岩壁)に阻まれてクルツに手が届きませんでした。

クルツは片手が完全に凍傷で動かない状態のまま、ザイルをほどいてより合わせ、懸垂下降を試みました。しかしザイルの結び目がカラビナに引っかかり、それ以上下りることができなくなりました。体力を使い果たしたクルツは、救助隊の目前で力尽き、壁に宙吊りとなったまま息を引き取りました。

登攀禁止令

この悲劇を受け、ベルン州議会はアイガー北壁の登攀を禁止する決議を採択しました。ただしこの禁止令はスイス法上の強制力が弱く、同年11月には条件付きで緩和されています。

1938年、ついに初登攀へ

1937年の「成功した撤退」

1937年8月、マティアス・レビッチュとルードヴィッヒ・フェルクが北壁に挑み、「死のビバーク」を越える地点まで到達しましたが、嵐のため撤退を余儀なくされました。重要なのは、2人がヒンターシュトイサー・トラバースにロープを残置して下山したことです。これにより、1936年の悲劇の教訓が生かされ、安全な撤退が可能になりました。この「成功した撤退」は、翌年の初登攀への道を開く大きな一歩となりました。

2つのパーティの合流

1938年7月21日、2組のパーティがそれぞれ独立して北壁に取り付きました。オーストリアのフリッツ・カスパレクとハインリッヒ・ハラー、そしてドイツのアンデルル・ヘックマイヤーとルードヴィッヒ・フェルク(前年の撤退経験者)です。

先行するオーストリア隊に、装備に優れたドイツ隊が追いつき、壁の途中で4人は一つのパーティを組むことを決めました。互いに面識がなかった4人が、壁の上で運命を共にしたのです。

頂上へ

登攀はヘックマイヤーが先頭に立って進められました。彼の卓越したルートファインディングと岩登りの技術が、パーティ全体を引き上げていきました。一方、オーストリア隊は雪と氷への対応に長けたアイゼンを装備しており、ドイツ隊が苦手とする氷壁のセクションで力を発揮しました。

ヒンターシュトイサー・トラバース、死のビバーク、第3雪田、ランペ(傾斜帯)、「神々のトラバース」、そして落石と雪崩の巣窟である「白い蜘蛛(ホワイト・スパイダー)」——北壁の核心部を一つひとつ突破していきます。

最後は猛烈な吹雪のなか、頂上直下の出口チムニーを登りきり、7月24日、4人はアイガーの山頂に立ちました。登攀開始から3日半。疲労困憊し、擦り傷だらけの体で、ついに「死の壁」は人間の手に落ちたのです。山頂からの下山は、事前にミッテルレギ稜を偵察していたオーストリア隊が先導しました。

初登攀のその後

政治に利用された栄光

しかし4人の偉業は、純粋な登山の成果として称えられるだけでは済みませんでした。当時のナチス政権は彼らの成功を国家的プロパガンダに利用し、帰還した4人をアドルフ・ヒトラーが直接出迎えるという政治的演出が行われました。ハラーは後年、この北壁登攀の経験を著書『白い蜘蛛』に記し、登攀の詳細を広く世に伝えています。

4人のその後の運命

初登攀を成し遂げた4人のその後は、それぞれに異なる道をたどりました。

主な登攀記録

1938年の初登攀以後も、アイガー北壁は世界中の登山家を引きつけ続けました。

まとめ

アイガー北壁の初登攀をめぐる歴史は、人間の挑戦と限界、勇気と悲劇が凝縮されたドラマです。1934年から1938年までのわずか4年間に7人もの命が失われ、8人目の挑戦者たちがようやく頂上への道を切り開きました。

1936年のヒンターシュトイサー・トラバースの教訓——撤退ルートを確保することの重要性——は、現代の登山においても変わらない基本原則です。また、政治やメディアの圧力が登山者の判断に影響を与えうるという事実は、SNS時代を生きる私たちにとっても示唆に富んでいます。

なお、現在のアイガー北壁は地球温暖化の影響で氷雪が減少し、岩壁の安定性が低下しているとされています。成功した登攀の大半が冬季に行われている点も、この壁の特殊な性格を物語っています。

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