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日本山岳会の誕生——明治の登山家たちが目指したもの

日本山岳会の誕生——明治の登山家たちが目指したもの

近代登山以前の日本——山は「登拝」するものだった

現在の私たちにとって、登山はスポーツや趣味として当たり前の存在です。しかし明治時代の日本では、山に登ることの意味はまったく異なっていました。

日本には古くから山岳信仰の伝統があり、富士山、白山、立山をはじめとする霊山は「登拝」の対象でした。修験者や行者が信仰のために山に入り、一般の人々も信仰心から山頂を目指す——それが日本における「登山」の原型です。

また、猟師や木こり、鉱山師といった人々は生業のために山に入りましたが、「山に登ること自体を楽しむ」という発想はほとんどありませんでした。ヨーロッパで18世紀末から発展していた近代アルピニズム——つまり「山に登ること自体に価値を見出し、スポーツとして楽しむ」という考え方は、明治中期の日本にはまだ根づいていなかったのです。

この状況を変えたのが、一冊の書物と一人の英国人宣教師、そして山を愛する若い日本人たちでした。

転換点となった一冊——志賀重昂『日本風景論』

1894年(明治27年)、地理学者・志賀重昂(しが しげたか)が『日本風景論』を出版しました。この一冊が、日本の登山史における最初の転換点となります。

『日本風景論』は、日本の自然景観を科学的かつ美学的な視点から論じた画期的な著作でした。志賀は、火山活動が生み出した日本列島の地形の多様性、四季折々の気候が見せる風景の変化、そして山岳地帯の壮大さを、データと熱意をもって描き出しました。

この本は初版が3週間で売り切れ、のちに15版を重ねるベストセラーとなりました。それまでの「近江八景」や「日本三景」といった伝統的な風景観を一新し、日本の山岳の美しさに多くの人々の目を向けさせたのです。

『日本風景論』に感銘を受けた若者の一人が、のちに日本山岳会の初代会長となる小島烏水(こじま うすい)でした。

小島烏水とウェストンの出会い

銀行員にして登山家——小島烏水

小島烏水(1873〜1948)は、香川県生まれの登山家・随筆家です。本名は小島久太。横浜商業学校を卒業後、横浜正金銀行に入行し、銀行員として働く傍ら登山に親しみました。文学や美術にも造詣が深く、浮世絵や西洋版画の収集家・研究家としても知られる多才な人物です。

1902年(明治35年)、志賀重昂『日本風景論』に感化された烏水は、友人の岡野金次郎とともに槍ヶ岳に登頂しました。この登山体験が、烏水の人生を大きく変えることになります。

ウェストンからの助言——「日本にも山岳会を」

翌1903年(明治36年)、岡野金次郎は偶然、英国人宣教師ウォルター・ウェストンの著書『Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps(日本アルプスの登山と探検)』を目にします。岡野はその内容を烏水に伝えるとともに、横浜に住んでいたウェストンを訪ねました。

ウェストンは2人に対して、英国山岳会(アルパイン・クラブ)にならった山岳団体を日本にもつくるよう勧めました。組織的な登山活動の重要性を熟知していたウェストンは、会の運営に関する具体的なアドバイスも惜しまなかったといいます。さらに後日、ウェストンの仲立ちで英国山岳会からも設立を激励する書簡が届きました。

烏水と岡野は、ウェストンの言葉に背中を押される形で、日本初の山岳団体の設立に向けて動き始めます。

1905年10月14日——日本山岳会の誕生

1905年(明治38年)10月14日、東京・飯田橋の料亭「富士見楼」に7人の男たちが集まりました。日本山岳会の設立について最終的な打ち合わせを行うためです。この日が、日本山岳会の「設立の日」とされています。

7人の発起人

創立の発起人となったのは、以下の7名です。

  1. 小島烏水——初代会長。横浜正金銀行員、登山家・随筆家
  2. 高頭仁兵衛——2代会長。植物採集家としても知られた
  3. 武田久吉——のちに6代会長。植物学者、英国公使アーネスト・サトウの息子
  4. 河田黙(山川黙)——のちに旧制武蔵高校教授・校長
  5. 梅澤親光——のちに陸軍砲兵学校教官
  6. 高野鷹蔵——回漕業主
  7. 城数馬——弁護士

興味深いのは、発起人7人のうち小島を除く多くが日本博物学同志会の会員であり、植物採集のための登山を趣味としていたことです。山岳会は当初、この博物学同志会の支会的な性格を持っていました。近代登山の出発点が、純粋な「冒険心」だけでなく「自然科学への探究心」にも根ざしていたことがわかります。

設立時の名称と会員数

設立当初の名称は単に「山岳会」でした。「日本山岳会」と改称されたのは4年後の1909年(明治42年)のことです。設立時の会員数は116名。翌年にはその4倍に膨れ上がり、以後も順調に増え続けました。

設立後の発展——機関誌『山岳』と探検登山の時代

機関誌『山岳』の創刊

1906年(明治39年)4月、機関誌『山岳』第1年第1号が発行されました。巻頭には設立時の主旨書が掲載され、ヨーロッパではアルプスが科学・文学・芸術など諸学の研究の中心となっていること、日本でも山岳会の設立により登山の気風を広めていくことが高らかに宣言されました。

『山岳』には登山記録だけでなく、地質学・植物学・気象学などの学術論文、山岳文学、さらには水彩画家・大下藤次郎による表紙絵や寄稿なども掲載され、総合的な山岳文化誌としての性格を持っていました。この雑誌は現在も発行が続いており、日本最古の山岳誌として120年近い歴史を刻んでいます。

「探検登山の時代」の幕開け

日本山岳会の設立前後から大正初期にかけての時代は、「探検登山の時代」と呼ばれています。会員たちは国内の未踏の高峰や未知のルートに次々と挑みました。

こうした先駆的な登山活動は、日本の山岳地図の空白を埋め、のちの登山者たちに道を拓くものでした。

名誉会員——ウェストンと志賀重昂

山岳会設立を勧めたウォルター・ウェストンは、日本山岳会の初代名誉会員に推挙されました。そして『日本風景論』で登山への意識を目覚めさせた志賀重昂は、ウェストンに次ぐ2人目の名誉会員として選ばれています。

ウェストンが「外からの刺激」を、志賀が「内からの覚醒」をもたらし、そして小島烏水ら若い登山家たちが行動に移した——日本山岳会の誕生は、この三つの力が交わった結果だったといえるでしょう。

120年の歩みが残したもの

1905年に116名で出発した日本山岳会は、現在も公益社団法人として活動を続けており、日本最大・最古の山岳団体です。英語名「The Japanese Alpine Club(JAC)」として国際的にも知られ、世界の主要な山岳団体と交流を持っています。

日本山岳会が果たしてきた役割は多岐にわたります。

2005年には創立100周年を迎え、記念事業として『日本山岳会百年史』が刊行されました。明治の7人から始まった組織が、120年にわたって日本の登山文化を支え続けていることは、小島烏水たち創設者の志がいかに確かなものだったかを物語っています。

まとめ

日本山岳会は、信仰登山から近代登山への転換を象徴する存在として、1905年に誕生しました。

山に登ることを「スポーツ」として楽しむ——私たちが当たり前のように行っているこの行為の出発点には、明治の登山家たちの情熱と、国境を超えた交流がありました。次の山行で稜線に立ったとき、120年前に同じ景色を目指した先人たちに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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