← マガジン一覧に戻る

槇有恒とアイガー東山稜初登攀——日本人が拓いたアルプス未踏ルート、1921年の偉業

槇有恒とアイガー東山稜初登攀——日本人が拓いたアルプス未踏ルート、1921年の偉業

槇有恒とは——仙台生まれのアルピニスト

槇有恒(まき ゆうこう/ありつね、1894〜1989)は、日本の近代登山史において最も重要な人物の一人です。1921年にアイガー東山稜(ミッテルレギ稜)の初登攀を成し遂げ、1956年にはマナスル(8,163m)遠征隊の隊長として日本初の8,000m峰登頂を指揮しました。

1894年(明治27年)、宮城県仙台市に生まれた槇は、父・槇武が新聞社の主幹を務める家庭で育ちました。政治学者の槇智雄は兄、世界的建築家の槇文彦は甥にあたるという文化人一家の出身です。

慶應義塾大学に進学した槇は、1914年に日本山岳会に入会し、慶應義塾山岳会を結成。ここから本格的な登山の道を歩み始めます。1917年の大学卒業後、アメリカ・コロンビア大学への留学を経てヨーロッパに渡り、アルプスの世界へ足を踏み入れました。

アイガー東山稜(ミッテルレギ稜)——20年以上未踏の難ルート

アイガー(Eiger、3,970m)は、スイス・ベルナーオーバーラント地方にそびえるアルプスの名峰です。メンヒ、ユングフラウとともに「オーバーラント三山」と呼ばれ、その北壁は「死の壁」として恐れられてきました。

アイガーには複数の登攀ルートがありますが、東山稜(ミッテルレギ稜、Mittellegi Ridge)は北東方向から頂上へ向かうナイフリッジ(痩せ尾根)のルートです。標高差約600mにわたって鋭い岩稜が続き、核心部には高さ約200mの切り立った岩壁がそびえています。

なぜ20年以上も未踏だったのか

ミッテルレギ稜を経由した下降には、1885年にすでに成功例がありました。しかし、下から登り上げる登攀は次元が異なる難しさでした。

1874年の最初の挑戦から数えて、13回の登攀失敗が記録されています。核心部の200mの岩壁は、当時の装備と技術では突破が困難とされ、多くの登山家が撤退を余儀なくされました。アルプスの一般的な登頂ルートが次々と開拓されていった時代にあって、ミッテルレギ稜からの登攀は最後に残された「未解決の課題」の一つだったのです。

アイガーへの道——留学とアルプスでの修練

槇有恒がアルプスに到達するまでには、周到な準備の期間がありました。

1918年にアメリカへ渡った槇は、コロンビア大学に在籍したのち、ヨーロッパに転じます。ロンドンではウォルター・ウェストンと面談しており、日本の登山史を切り拓いた先達から直接助言を受けたとされています。

1919年秋、槇はスイスのグリンデルワルトに到着しました。しかし、すぐにアイガーに挑んだわけではありません。槇はまず、アルプス登山を多方面から研究することから始めました。

約2年にわたる入念な準備を経て、槇はついにミッテルレギ稜への挑戦を決意します。

1921年9月、初登攀の2日間

1921年9月9日、槇有恒と3人のグリンデルワルトの山岳ガイドがミッテルレギ稜に取りついました。登攀メンバーは以下の4人です。

9月9日——稜線への取りつきとビバーク

4人はミッテルレギ稜に沿って高度を上げ、稜線上の岩穴で野営(ビバーク)しました。当時はミッテルレギ稜に山小屋は存在せず、岩陰で寒さに耐えながら夜を明かすしかありませんでした。

9月10日——核心部の突破と登頂

翌10日、4人は核心部である高さ約200mの急峻な岩壁に挑みました。鋭いナイフリッジを慎重にたどり、ときに岩壁をトラバース(横移動)しながら、約7時間をかけて核心部を突破。

午後7時15分、4人はアイガーの頂上に立ちました。

20年以上にわたって13回の失敗が積み重ねられてきた未踏ルートが、ついに克服された瞬間でした。翌11日の午前2時半、4人はアイガーグレッチャー駅に無事下山。ユングフラウ鉄道でグリンデルワルトへ帰還しました。

この偉業はヨーロッパの登山界に大きな衝撃を与え、槇有恒は「世界のマキ」と称されるようになります。27歳の日本人が、アルプスの難関ルートの初登攀を成し遂げたことは、日本の登山がヨーロッパと肩を並べるレベルに達したことを証明するものでした。

ミッテルレギ小屋——槇が遺した山小屋

初登攀の成功後、槇は驚くべき行動に出ます。ミッテルレギ稜に山小屋を建設するための費用として、グリンデルワルトの山岳ガイド協会に1万スイスフランを寄付したのです。

この寄付金をもとに、総工費約1万6千フランをかけて標高3,355m地点にミッテルレギ小屋(Mittellegi Hut)が建設され、初登攀から3年後の1924年10月に開業しました。

槇の寄付によって建てられたこの山小屋は、その後のミッテルレギ稜登攀を飛躍的に安全なものにしました。稜線上で安全に宿泊できるようになったことで、ミッテルレギ稜はアイガーの「一般ルート」として定着していきます。

オリジナルの小屋は2001年に新築に建て替えられ、旧小屋はアイガーグレッチャー駅付近のユングフラウ・アイガー・ウォーク沿いに移築保存されています。2021年には初登攀100周年を記念して、グリンデルワルト博物館で特別展が開催されました。

アイガーの後——アルバータ山とマナスル

槇有恒の登山人生は、アイガーだけでは終わりませんでした。

1925年——カナダ・アルバータ山の世界初登頂

1925年、槇は早川種三らとともにカナダ・ロッキー山脈のアルバータ山(3,619m)の世界初登頂に成功しました。頂上には、細川護立侯爵から預かった銀のピッケルを立てたと伝えられています。アイガーに続く世界的な初登攀の実績は、槇の名をさらに高めました。

1956年——マナスル初登頂

帰国後、実業界で活躍しながら日本山岳会の会長を2期にわたって務めた槇は、1956年(昭和31年)、人生最大のプロジェクトに挑みます。ヒマラヤの未踏峰マナスル(8,163m)遠征隊の隊長として、遠征を指揮したのです。

このとき槇は62歳。自ら山頂に立つことはありませんでしたが、「極地法」と呼ばれる登山戦術を研究し、山麓のサマ村の人々との協力体制を築くなど、綿密な準備を行いました。

1956年5月9日、今西壽雄とシェルパのギャルツェン・ノルブがマナスルの頂上に立ちました。日本人による初の8,000m峰登頂であり、日本登山界の悲願がついに達成された瞬間でした。この成功は戦後の日本に空前の登山ブームを巻き起こし、社会現象にまでなりました。

晩年と栄誉

マナスル登頂の功績により、槇は仙台市名誉市民、文化功労者、勲三等旭日中綬章を受けました。また、英国山岳会(アルパイン・クラブ)、アメリカ山岳会、スイス山岳会の名誉会員にも選ばれています。

1989年(平成元年)5月2日、槇有恒は95歳で亡くなりました。アイガー東山稜の初登攀から68年、マナスルの初登頂から33年後のことでした。

まとめ

槇有恒は、日本人として初めてアルプスの未踏ルートを開拓し、日本の登山を世界水準に引き上げた登山家でした。

アイガーのミッテルレギ稜を見上げるとき、100年以上前にあの鋭い稜線に取りつき、未知のルートを切り拓いた日本人登山家がいたことを思い出してみてください。

YAMATOMOで山の仲間を見つけよう

山チャット、コミュニティ、ガイド依頼など、山を楽しむための機能が充実。

App Storeでダウンロード