「征服不可能な山」——マッターホルンの威容
アルプス山脈の盟主、マッターホルン(標高4,478m)。スイスとイタリアの国境に屹立するこの山は、天を突き刺すようなピラミッド型の山容で世界中の登山家を魅了し続けてきた。スイス側の麓にはツェルマット、イタリア側にはブレイユ=チェルヴィニアの町がある。イタリア語ではチェルヴィーノ(Cervino)、フランス語ではセルヴァン(Cervin)と呼ばれる。
19世紀前半、モンブラン(1786年初登頂)やユングフラウ(1811年初登頂)など、アルプスの名峰が次々と制覇されるなかで、マッターホルンだけは誰も寄せ付けなかった。スイス側から見上げればほぼ垂直の岸壁、イタリア側も崩れやすい岩稜が続く。地元の人々は山頂に悪魔が棲むと本気で信じていた。「征服不可能な山」——それがマッターホルンに与えられた名だった。
しかし、1850年代にアルプス登山の黄金時代が幕を開けると、残された最後の大物であるマッターホルンは、野心ある登山家たちの最大の標的となった。そして、一人のイギリス人青年がこの山に取り憑かれることになる。
ウィンパーの執念——7度の挑戦
エドワード・ウィンパー(Edward Whymper)は1840年、ロンドンに生まれた。父は画家で、ウィンパー自身も木版画の彫刻師として生計を立てていた。1860年、弱冠20歳のとき、ロンドンの出版社からアルプスの風景画を描く仕事を受けてスイスを訪れたことが、彼の運命を変えた。
アルプスの壮大な山々を目の当たりにしたウィンパーは、たちまちアルピニズムに惹かれていく。そして彼の視線はすぐに、まだ誰も頂に立ったことのないマッターホルンへ向けられた。
1861年8月、最初の挑戦。イタリア側からの登攀は、脆い岩と悪天候に阻まれて失敗に終わった。以降、ウィンパーは何度もマッターホルンに挑んだが、ことごとく退けられる。1862年だけで3度の敗退。1863年、1864年にも挑んでは退いた。それでもウィンパーは諦めなかった。計7度、この山に跳ね返されながらも、彼はマッターホルンへの執着を捨てることができなかった。
ウィンパーの登山技術への貢献
ウィンパーは単なる登山家ではなかった。彼は登山道具の改良にも取り組み、1865年のマッターホルン遠征では自ら設計に携わったテントを持ち込んだ。底面が正方形で、二本の骨組みを交差させて直立する側面が正三角形になる構造——これは現在「A型テント」と呼ばれるものの原型であり、後世のテント設計に大きな影響を与えた。
ウィンパー対カレル——国家の威信をかけた競争
マッターホルン初登頂をめぐるもう一人の主人公が、イタリア人ガイドのジャン=アントワーヌ・カレル(Jean-Antoine Carrel)である。ヴァッレ・ダオスタ出身のカレルは、マッターホルンを自分の山と誇り、イタリア側からの初登頂に人生を賭けていた。
1860年代前半、ウィンパーとカレルは時に協力し、時に対立しながらマッターホルンに挑み続けた。二人はパートナーとして何度も共に登ったが、次第にその関係はライバルへと変質していく。背景には国家の威信も絡んでいた。イタリア側は統一間もないイタリア王国の象徴として、カレルによるイタリアルートからの初登頂を望んでいた。
カレルの裏切り——運命の1865年7月
1865年7月、ウィンパーとカレルはイタリア側からの共同登攀を計画していた。しかしカレルは悪天候を理由にこの計画をキャンセルする。ところが数日後、ウィンパーはカレルが自分に黙って別のイタリア人パーティを組み、イタリア側からのアタックに出発したことを知る。
出し抜かれたことに激怒したウィンパーは、急遽テオドール峠を越えてスイス側のツェルマットへ移動した。そこで偶然にも、同じくマッターホルンの頂上を狙っていたチャールズ・ハドソンやフランシス・ダグラス卿と出会い、即座に合同チームの結成を決めた。
こうして、イタリア側からはカレル率いるイタリアチーム、スイス側からはウィンパー率いるイギリスチームが、同じ日に同じ山の頂上を目指すという壮大なレースが始まった。
1865年7月14日——7人の即席隊が山頂へ
ウィンパーの隊は7名で構成されていた。イギリス人登山家のエドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、そしてダグラス・ハドウの4名に加え、フランス人ガイドのミシェル・クロ、スイス人ガイドのペーター・タウクヴァルター父子の3名。急ごしらえの混成チームだった。
懸念がなかったわけではない。ダグラス・ハドウは若く意欲的な登山家だったが、経験はまだ浅かった。しかし、ハドソンの推薦もあり、ウィンパーは彼を隊に加えることにした。この判断が、後に悲劇の伏線となる。
ヘルンリ稜からの登攀
7月13日にツェルマットを出発した一行は、スイス側のヘルンリ稜(Hörnli ridge)からアプローチを開始した。当時の常識では困難とされていたスイス側ルートだったが、実際に登ってみるとイタリア側ほどの難所は少なく、一行は順調に高度を上げていった。
7月14日午後1時40分、ミシェル・クロとウィンパーがほぼ同時に山頂に飛び出した。眼下を見下ろすと、はるか1,200フィート(約360m)下のイタリア側斜面に、カレル一行の姿が見えた。ウィンパーたちは岩を蹴り落として自分たちの存在を知らせた。カレルのチームはそれに気づき、撤退を始めた。
マッターホルン初登頂の栄冠は、ウィンパーのものとなった。カレルはイタリア側からの登頂に3日後の7月17日に成功するが、初登頂の称号を手にすることはできなかった。後にウィンパーは著書のなかで、カレルこそこの山の初登頂に相応しい人物だったが、母国イタリア側からの登頂にこだわりすぎたと記している。
下山中の悲劇——切れたロープの謎
栄光は長く続かなかった。山頂での勝利からわずか数時間後、登山史上最も衝撃的な事故が起きる。
7人は一本のロープでつながり、先頭からミシェル・クロ、ダグラス・ハドウ、チャールズ・ハドソン、ダグラス卿、ペーター・タウクヴァルター(父)、ペーター・タウクヴァルター(子)、エドワード・ウィンパーの順で下山していた。
ハドウの滑落
山頂を離れて約1時間。急峻な岩場に差し掛かったとき、靴底がすり減っていたハドウが足を滑らせた。先頭のクロは一歩ごとにハドウの足場を確保するために自分のピッケルを手放しており、突然の衝撃に対応できなかった。ハドウはクロの背中に倒れかかり、二人とも北壁側へ滑落。その勢いでハドソンとダグラス卿も引きずり込まれた。
ウィンパーとタウクヴァルター父子は必死に岩にしがみついた。だが、彼らと前方の4人をつないでいたロープがぷつりと切れた。4人は約1,400メートルの断崖を転落し、命を落とした。
ロープ切断の疑惑
事故直後、ウィンパーは切れたロープを確認して愕然とした。隊が携行していたロープのなかで最も古く、最も弱いものが、まさに生還者と犠牲者の間に結ばれていたのだ。本来は予備として持参していたはずのそのロープが、なぜこの致命的な位置に使われていたのか。
さらに深刻な疑惑が浮上した。ウィンパーとタウクヴァルター父子が自分たちの命を守るためにロープを故意に切ったのではないか、という噂が広まったのだ。その後の調査でこの疑惑は否定されたが、タウクヴァルター家はこの汚名に長く苦しんだ。
犠牲者のうち、クロ、ハドウ、ハドソンの3名の遺体はマッターホルン氷河上で発見され、ツェルマットの墓地に埋葬された。しかし、ダグラス卿の遺体は最後まで見つからなかった。
アルプス黄金時代の終焉——栄光が遺したもの
マッターホルンの悲劇は世界中の新聞で報じられ、それまでのアルプス登山事故のなかで最大の見出しとなった。イギリスでは悲しみがすぐに怒りへと変わり、ヴィクトリア女王までが登山の禁止を示唆した。
マッターホルン初登頂により、アルプスの4,000メートル級の主要な峰はほぼすべてが登頂済みとなった。1854年から1865年までの約10年間を「アルプス黄金時代」と呼ぶが、マッターホルンの初登頂と悲劇がまさにその幕引きとなったのだ。以降、登山の舞台は未踏のルート開拓や、より高い山域へと移っていく「銀の時代」へと入る。
『アルプス登攀記』——山岳文学の金字塔
事故後、ウィンパーは激しい非難と疑惑にさらされた。その回答と弁明を兼ねて1871年に出版したのが『アルプス登攀記(Scrambles Amongst the Alps)』である。ウィンパー自身が手がけた繊細な木版画を豊富に収録し、イギリス特有のユーモアを交えながら冒険を淡々と語るこの著作は、山岳文学の古典として今も読み継がれている。
しかし、近年ではタウクヴァルター家の子孫による証言も注目を集めている。ウィンパーの著書は事実上の「公式記録」として扱われてきたが、時が経つにつれてつじつまが合わない部分も指摘されるようになった。歴史は常に勝者の視点で語られるが、マッターホルンの物語にはまだ明かされていない真実があるのかもしれない。
ウィンパーの晩年とカレルの最期
ウィンパーは1911年にシャモニーで71歳の生涯を閉じた。名声を手にしながらも、あの日の記憶から逃れることはできず、晩年は酒に溺れたと伝えられている。
一方のカレルは、マッターホルンのガイドとして生涯を捧げた。1890年、イタリア側からの下山中に悪天候に遭遇し、客を安全に送り出した後、山中で力尽きた。マッターホルンとともに生き、マッターホルンとともに逝った男だった。
マッターホルンの現在
初登頂から160年以上が経った現在、マッターホルンには毎年数千人の登山者が挑む。しかし年間6〜12名が命を落としており、初登頂以来の累計死者数は500人を超える。その数はエベレスト、デナリ、レーニアの合計を上回るとも言われ、世界で最も危険な山の一つであり続けている。
ツェルマットのマッターホルン博物館には、あの日切れたロープが今も展示されている。ロープは静かに、160年前の栄光と悲劇を語り続けている。