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女性登山家の先駆者たち——ダンジュヴィルからワークマンまで

女性登山家の先駆者たち——ダンジュヴィルからワークマンまで

女性と山——禁じられた頂への憧れ

18世紀から19世紀にかけて、登山は男性だけに許された行為だった。ヴィクトリア朝の社会規範は、女性が激しい運動をすることは健康を害し、女性としての品位を損なうと考えていた。コルセットに長いスカート、重い下着——当時の女性の「正装」は山岳地帯とは根本的に相容れないものだった。

しかし、そうした時代にあっても山への憧れを抑えきれない女性たちがいた。嘲笑と偏見、時に物理的な危険を乗り越えて、彼女たちは男性と同じ頂を目指した。この記事では、18世紀末から20世紀初頭にかけて登山界の常識を覆した5人の先駆者たちを紹介します。

マリー・パラディ——モンブランに立った最初の女性

1808年7月14日、シャモニーで働く小柄な使用人マリー・パラディは、西ヨーロッパ最高峰モンブラン(4,808m)の山頂に立った。記録に残る限り、山頂に到達した最初の女性である。

労働者階級の女性の挑戦

パラディは貴族でも冒険家でもなかった。シャモニーで小さな茶店を営む労働者階級の女性だった。モンブラン初登頂者として知られるジャック・バルマが、彼女の健脚ぶりを見込んで同行を提案したとされている。登頂の名声が茶店の商売に役立つだろう、というのがバルマの口説き文句だった。

1808年7月14日、パラディは7人の男性とともに出発した。12ポンド(約5.4kg)を超える冬の厚手のドレスに革靴という、登山には不向きな服装だった。最終盤、高山病に襲われたパラディは意識が朦朧とし、ガイドたちに引っ張り上げられるようにして山頂に到達した。彼女自身の証言によれば、山頂では目も見えず、息もできず、ガイドたちに向かって自分をクレバスに投げ込んでくれと懇願したという。

「モンブランのマリー」

登頂後、パラディはシャモニーで一躍有名人となった。後に宿屋を営み、モンブランを目指す登山者たちに差し入れを届けるようになった。ただし、パラディが「自力で」登頂したかについては議論がある。ガイドに引き上げられた区間があったため、後世の登山家からは「真の初登頂者」として認められないこともあった。パラディ自身は二度と山に登ることはなかった。

アンリエット・ダンジュヴィル——「モンブランの花嫁」

パラディの登頂から30年後の1838年、フランスの貴族女性アンリエット・ダンジュヴィルが、女性として初めて「自力で」モンブランに登頂した。彼女はガイドに道案内と荷物運搬を頼んだが、身体を支えられたり担がれたりすることは一切なかった。

自ら設計した登山服

ダンジュヴィルは登頂の準備に徹底的にこだわった。当時の社会通念に反して、動きやすいニッカーボッカーズを含む登山用の衣装を自らデザインした。総重量約7kgの装備一式だった。44歳での挑戦。彼女は下からの応援を固辞し、他の登山パーティーとの合流も断った。

1838年9月4日午前2時、ダンジュヴィル一行はシャモニーを出発。岩場では男性ガイドと同等のスピードで登り、午後1時15分に山頂に到達した。山頂ではシャンパンで乾杯し、成功を知らせる伝書鳩が放たれた。

25年にわたる登山人生

一度きりの冒険で終わらなかったのがダンジュヴィルの凄さである。初登頂の後も25年にわたって登山を続け、21以上の峰を踏破した。60代まで現役のアルピニストであり続けた彼女は、自らの登山記録のなかで、登山界には「女性の刻印」が必要だと宣言し、後に続く女性たちに大胆であれと呼びかけた。

ルーシー・ウォーカー——マッターホルンを制した女性

イギリスのルーシー・ウォーカーは、19世紀後半の女性アルピニズムを象徴する存在である。1836年頃にリバプールの裕福な家庭に生まれた彼女は、リウマチの治療として医師に散歩を勧められたことがきっかけで山に向かった。父フランクと兄ホレスがすでに著名なアルピニストだったことも、彼女を山の世界に導いた。

98回の遠征、16の女性初登頂

ウォーカーの登山キャリアは驚異的だった。生涯で98回の遠征を行い、少なくとも16の峰で女性初登頂を成し遂げた。1860年のシュトラールホルンに始まり、フィンスターアールホルン(1862年)、ドーム(1866年)、ヴァイスホルン(1866年)、エギーユ・ヴェルト(1870年)と、アルプスの名峰を次々と制覇した。すべてヴィクトリア朝の女性にふさわしいフランネルのロングスカートで登った。

マッターホルンへの競争

1871年、ウォーカーの長年のガイドであるメルヒオール・アンデレッグが、アメリカ人女性登山家メタ・ブレヴォールトがマッターホルン登頂を計画しているという情報をもたらした。ウォーカーは予定を急遽変更し、1871年7月21日、史上19回目、女性として初めてマッターホルンの頂に立った。ブレヴォールトがツェルマットに到着したのは翌日のことだった。

登山史家クレア・ロッシュの言葉を借りれば、ウォーカーは「アルプスで女性を初めて目に見える存在にした人物」であり、後に続く女性登山家たちのために道を切り拓いた。1907年にリジー・ル・ブロンが女性登山クラブ(レディース・アルパイン・クラブ)を設立すると、ウォーカーもこれに参加し、1913年から1915年まで会長を務めた。

ペックとワークマン——高所記録をめぐる女性同士の闘い

19世紀末から20世紀初頭、二人のアメリカ人女性が世界の高所記録をめぐって激しく競い合った。アニー・スミス・ペックとファニー・ブロック・ワークマン。両者の対決は、女性登山史のなかでも最も劇的なエピソードの一つである。

アニー・スミス・ペック——知性と行動の人

1850年、ロードアイランド州プロヴィデンスに生まれたペックは、アメリカ初の女性古典学教授の一人だった。40代で本格的に登山を始め、1895年にマッターホルンに登頂して国際的な注目を集めた。話題になったのは登頂そのものよりも、当時の常識に反してスカートではなくパンツを履いて登ったことだった。

50歳を超えてなおペックの野望は衰えなかった。南米に渡り、4年間で5度の失敗を経て、1908年にペルーのワスカラン北峰(6,768m)の初登頂に成功した。当初、この高度は正確に測量されておらず、ペックは自分が女性の世界最高高度記録を樹立したと確信していた。

ファニー・ブロック・ワークマン——科学者にして闘士

ワークマンは1859年、マサチューセッツ州の名門に生まれた。父は元州知事。夫ウィリアムとともに1898年から1912年にかけてカラコルムやヒマラヤで8シーズンにわたる探検を行い、地図作成、氷河調査、そして登山を同時並行で進めた。ヨーロッパの10の地理学会から名誉勲章を授与された、当時最も権威ある女性探検家だった。

1906年、47歳のワークマンはヒマラヤのピナクル・ピーク(6,930m)に登頂した。長いスカートに重装備、凍結乾燥食もサンスクリーンもラジオもない時代。この記録は女性の世界最高到達高度として1934年まで破られなかった。

フランス測量隊を雇った攻防戦

1908年にペックがワスカランに登頂すると、当時の報道は山の高度を23,000フィート(約7,010m)から26,000フィート(約7,925m)の間と報じた。もしペックの主張する高度が正しければ、ワークマンの記録は破られたことになる。

ワークマンは自らの記録を守るため、私費でフランスの測量技師チームを南米に派遣し、ワスカランの正確な標高を三角測量で算出させた。結果、ワスカランの標高はペックの主張よりも約600m低いことが判明。ペックは西半球の女性最高到達高度の記録は保持したものの、世界記録はワークマンの手に残った。

参政権運動との交差

二人に共通していたのは、登山を女性の権利拡大の象徴として位置づけていたことだった。ワークマンはカラコルムの峠の上で「Votes for Women(女性に投票権を)」と書かれた横断幕を掲げて写真に収まった。ペックも1911年、61歳でペルーのコロプナ峰(6,426m)に登頂した際、山頂に同じく女性参政権のバナーを立てた。二人のライバル関係は険悪だったが、山を通じて女性の可能性を証明するという信念では一致していた。

先駆者たちの遺産——現代へ

この記事で紹介した女性たちが活躍した18〜19世紀は、女性が山に登ること自体が社会的なタブーだった時代である。彼女たちは重い衣服、不十分な装備、そして周囲の偏見という三重の障壁を乗り越えて山頂に立った。

彼女たちの闘いの延長線上に、現代の女性登山家の活躍がある。1975年に田部井淳子がエベレストに女性として初めて登頂し、2019年にはニルマル・プルジャのチームに加わったネパール人女性が8000m峰に挑むなど、女性の高所登山は今や特別なことではなくなった。しかし、18世紀にパラディがモンブランの山頂で意識を失いながらも頂に立ったこと、ダンジュヴィルが自ら服を設計して自力登頂を果たしたこと、ウォーカーがスカート姿で98回の遠征をこなしたこと——これらの「最初の一歩」がなければ、今日の風景は存在しなかった。

山は性別を問わない。しかし、山の世界がそのことを認めるまでには、何人もの勇敢な女性たちの闘いが必要だった。彼女たちの物語は、登山史であると同時に、女性の権利獲得の歴史でもあるのです。

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