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遭難者の多くが「まさか自分が」と思っていた——心理バイアスの話

遭難者の多くが「まさか自分が」と思っていた——心理バイアスの話
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「自分だけは遭難しない」——山に登るとき、心のどこかでそう思っていませんか? 実は、警察庁の統計によると、2024年の山岳遭難者数は3,357人にのぼります。そしてその多くが、出発前には「まさか自分が遭難するとは」と考えてもいなかった人たちです。この記事では、登山者なら誰もが持っている「心理バイアス」の正体を解き明かし、あなたの山行をより安全にするための考え方をお伝えします。

「正常性バイアス」とは何か——脳が危険を"なかったこと"にする仕組み

登山中、空がにわかに暗くなってきた。遠くで雷鳴が聞こえる。でも「まだ大丈夫だろう」「さっきも鳴ったけど何もなかった」と、そのまま歩き続けてしまう。こんな経験、思い当たる方もいるのではないでしょうか。

これは正常性バイアスと呼ばれる認知の特性が関係しています。心理学では、人間の脳には予期しない出来事に対してある程度「鈍感」に処理する仕組みが備わっていると考えられています。日常生活ではこの仕組みのおかげで、些細な変化にいちいち不安を感じずに過ごすことができます。ところが、山という非日常の環境でこの仕組みが働くと、本来なら「危険だ」と認識すべきサインを「たいしたことない」と処理してしまうのです。

ここで知っておいてほしいのは、正常性バイアスは「油断している人」だけに起きるものではないということです。むしろ、人間の脳に標準装備された機能であり、誰にでも作用します。「自分は冷静だから大丈夫」と思うこと自体が、すでにバイアスの入り口だと言えるかもしれません。

山で起きやすい3つの心理バイアス

正常性バイアスは代表的なものですが、登山中に判断を曇らせる心理的な傾向はほかにもあります。ここでは、山で特に注意したい3つのバイアスを紹介します。

「ここまで来たのだから」——サンクコスト効果

朝4時に起きて、何時間もかけて登ってきた。山頂まであと少し。でも天候が急変し、本来なら引き返すべき状況。そんなとき「ここまで来たのにもったいない」という気持ちが撤退の判断を鈍らせることがあります。

これはサンクコスト効果(埋没費用効果)と呼ばれるもので、すでに費やした時間や労力を惜しむあまり、合理的な判断ができなくなる心理です。登山において「撤退」は敗北ではなく、次の山行につなげるための最善の判断であることを、出発前に心に刻んでおくことが大切です。

「みんなが行くなら大丈夫」——集団同調性バイアス

グループ登山で、リーダーが「行こう」と言えば従ってしまう。周りの誰も不安を口にしないから、自分も黙っている。これは集団同調性バイアスと呼ばれる傾向です。

本当は「この天気で大丈夫かな」と感じていても、集団の空気に流されて声を上げられない。特に日本の登山文化では、この傾向が強く出やすいとも指摘されています。グループ登山では「不安を口にすることは、仲間の安全を守る行為だ」という共通認識を持つことが重要です。

「自分は経験があるから」——過信バイアス

意外に思われるかもしれませんが、経験を積んだ登山者ほどバイアスの罠にはまりやすい面があります。「この山は何度も登っている」「このくらいの天候なら問題ない」という過去の成功体験が、変化した状況への感度を下げてしまうのです。

警察庁の山岳遭難統計を見ると、遭難者の約8割が40歳以上であり、登山経験がある中高年層の遭難が多いことがわかります。経験は確かに力になりますが、「経験があるからこそ慎重になる」という姿勢こそが、本当の意味での熟練者ではないでしょうか。

※統計の数値は年度や集計方法によって異なります。最新の情報は警察庁の公式発表をご確認ください。

バイアスに「気づく」ための実践的な3つの習慣

心理バイアスは「知っているだけ」では防げません。しかし、日常的な習慣に落とし込むことで、山での判断力を高めることは可能です。

まとめ

「まさか自分が遭難するとは思わなかった」——この言葉の背景には、正常性バイアスをはじめとする複数の心理的な傾向が存在します。大切なのは、これらのバイアスを「弱さ」として恥じることではなく、人間の脳の仕組みとして理解し、あらかじめ対策を立てておくことです。撤退基準を事前に決める、不安を声に出す、他者の情報に耳を傾ける。小さな習慣の積み重ねが、山での判断を確かなものにしてくれます。山は何度でもあなたを待ってくれます。だからこそ、「次も安全に登る」ための判断を大切にしてください。

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