田部井淳子とは——福島の少女が世界の頂へ
田部井淳子(たべい じゅんこ)は、1939年9月22日、福島県田村郡三春町に生まれました。10人きょうだいの末っ子として育った田部井は、小学4年生のときに学校行事で那須連峰の茶臼岳に登ったことがきっかけで山に魅了されます。自分の足で歩くことで広がる世界の大きさに、幼い心が揺さぶられたのです。
昭和女子大学英米文学科に進学した田部井は、大学の山岳部で本格的に登山を始めます。卒業後も社会人山岳会に所属して登山を続け、谷川岳や穂高岳の岩場にも挑戦するようになりました。当時の登山界は男性中心の世界でしたが、田部井は「女だから」という理由で山に登れないことへの疑問を強く感じていたといいます。
女子登攀クラブの結成と海外遠征への挑戦
1969年、田部井は「女子だけで海外の山に登りたい」という思いから、女子登攀クラブを設立しました。当時、女性だけの登山隊で海外の高峰を目指すという発想自体が珍しく、周囲からは懐疑的な声も少なくなかったとされています。
1970年、女子登攀クラブはネパール・ヒマラヤのアンナプルナIII峰(7,555m)に遠征し、登頂に成功しました。これは日本女性として初のヒマラヤ7,000m峰登頂という快挙でした。この成功が、次なる目標——エベレストへの道を開くことになります。
1971年、田部井はネパール政府にエベレスト登山の申請を行いました。許可が下りたのは1972年で、登山シーズンは1975年春と指定されました。遠征費用は約4,300万円にのぼり、資金集めは困難を極めました。企業スポンサーがなかなかつかず、メンバーは自宅で英会話教室を開いたり、節約を重ねたりして費用を工面したといいます。
1975年エベレスト遠征——雪崩を越えて
1975年春、日本女子エベレスト登山隊(隊長:久野英子、副隊長兼登攀隊長:田部井淳子)は、15名の隊員とシェルパとともにネパール側の南東稜ルートからエベレストに挑みました。
5月4日未明、標高約6,300mの第2キャンプを雪崩が襲います。テントごと雪に埋まった田部井は一時意識を失い、シェルパに引きずり出されて命を取り留めました。隊員全員が全身打撲を負う大きな事故でした。
通常であれば撤退を検討する状況ですが、田部井は登頂続行を主張しました。体中に痛みが残る中、高所順応を進めながら上部キャンプへの荷上げを続けます。しかし、高山病の影響でシェルパ6名が行動不能に陥り、酸素ボンベの補給にも支障が出るなど、困難は次々と押し寄せました。
登頂の日——1975年5月16日
1975年5月16日午後12時35分、田部井淳子はシェルパのアン・ツェリンとともに、女性として世界で初めてエベレスト(8,849m)の山頂に立ちました。35歳のときのことです。
山頂では360度のパノラマが広がっていました。田部井は後に、山頂に立った瞬間の感想として、壮大な達成感よりも「早く降りなければ」という安全への意識が先に立ったと語っています。高所での滞在時間は命に直結するため、登山家としての冷静な判断がそこにありました。
この快挙は世界中のメディアで大きく報じられ、田部井は一躍時の人となりました。なお、田部井の登頂からわずか11日後の5月27日には、チベット側からファントグ(潘多)が女性として2人目のエベレスト登頂を果たしています。1975年は、女性の高所登山にとって歴史的な年となりました。
七大陸最高峰と登山普及活動
エベレスト登頂後も、田部井の挑戦は続きました。世界各地の最高峰に次々と挑み、1992年にはエルブルス(ヨーロッパ最高峰)に登頂して、女性として世界で初めて七大陸最高峰をすべて制覇しました。
- 1975年 エベレスト(アジア / 8,849m)
- 1980年 キリマンジャロ(アフリカ / 5,895m)
- 1987年 アコンカグア(南アメリカ / 6,961m)
- 1988年 デナリ(北アメリカ / 6,190m)
- 1988年 ヴィンソン・マシフ(南極 / 4,892m)
- 1991年 カルステンツ・ピラミッド(オセアニア / 4,884m)
- 1992年 エルブルス(ヨーロッパ / 5,642m)
同時に、田部井は登山の普及活動にも精力的に取り組みました。HAT-J(ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト・ジャパン)の代表として、エベレスト周辺に放置されたゴミの清掃活動を長年にわたり実施。九州大学大学院ではエベレストにおける環境問題をテーマに研究を行い、修士号を取得しています。
また、田部井はさまざまな年代・経験レベルの人たちと山に登ることを大切にしていました。初心者向けの登山ツアーを企画し、講演活動を通じて「山の楽しさ」を伝え続けたことは、多くの登山愛好者の記憶に残っています。
最後まで山とともに——闘病と次世代への思い
2007年、田部井は乳がんと診断されます。治療を受けながらも登山を続け、2012年には腹膜がん、2014年には脳腫瘍が見つかりました。それでも田部井は山に登ることをやめませんでした。
特に力を注いだのが、東日本大震災で被災した東北の高校生たちを富士山に連れていく活動です。「被災した子どもたちに、自分の足で日本一の山に登る体験をさせたい」という田部井の思いから始まったこのプロジェクトは、毎年続けられました。
2016年7月27日、田部井は病身を押して東北の高校生とともに富士山に登りました。これが生涯最後の登山となりました。同年10月20日、腹膜がんのため77歳で逝去。最後まで山を愛し、山を通じて人とつながることを大切にした生涯でした。
2019年、国際天文学連合は冥王星の山脈に「タベイ山地(Tabei Montes)」という名前をつけました。地球の最高峰に初めて立った女性の名前が、太陽系の彼方にも刻まれたのです。
まとめ
田部井淳子の生涯は、「女性だから」という壁を自らの足で越え続けた記録です。1975年のエベレスト登頂は女性登山史の転換点となり、七大陸最高峰制覇という偉業はその後の女性登山家たちに道を拓きました。
しかし、田部井が本当に伝えたかったのは「記録」ではなく、「山に登ることの喜び」だったのではないでしょうか。初心者との登山、被災地の高校生との富士登山、環境保護活動——その一つひとつが、山と人をつなぐ架け橋でした。山は特別な人だけのものではない。誰もが自分の足で、自分のペースで、山と向き合える。田部井淳子の歩みは、そのことを静かに、しかし力強く教えてくれます。