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日本アルプスの父 ウォルター・ウェストン——日本の山を世界に紹介した英国人宣教師

日本アルプスの父 ウォルター・ウェストン——日本の山を世界に紹介した英国人宣教師

ウォルター・ウェストンとは

上高地のバスターミナルから梓川沿いに歩いていくと、川のほとりに一枚のレリーフが目に入ります。穏やかな表情で山を見つめる紳士の横顔——これがウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1861〜1940)の碑です。

ウェストンは英国国教会の宣教師として明治時代に来日し、日本の山々を精力的に踏破。その体験を綴った著書によって「日本アルプス」の名を世界に広めた人物です。のちに「日本アルプスの父」あるいは「日本近代登山の父」と呼ばれるようになりました。

しかしウェストンは単なる冒険家ではありません。宣教師としての使命を果たしながら、日本の山岳文化の発展に深く関わり、その功績は現在も毎年6月の「ウェストン祭」として上高地で語り継がれています。この記事では、ウェストンの生涯をたどりながら、彼が日本の登山史に与えた影響を解説します。

最初の来日と山への目覚め(1888〜1895年)

ウォルター・ウェストンは1861年、イングランド中部のダービーに生まれました。ケンブリッジ大学クレアカレッジで神学を学び、英国国教会宣教協会(CMS)の宣教師として、1888年(明治21年)に27歳で初来日します。

赴任先は神戸でした。ウェストンは幼い頃からスイスアルプスに親しんでおり、日本に着くとすぐに六甲山などの近隣の山に登り始めます。やがて日本の山岳地帯の壮大さに惹かれ、宣教活動の合間を縫って、各地の山へ足を運ぶようになりました。

精力的な山行の記録

ウェストンの登山活動は驚くべき規模でした。1891年から1894年のわずか4年間で、40以上の山に登頂したと記録されています。主な登頂記録には以下のようなものがあります。

当時の日本の山は登山道が整備されておらず、地図も不正確でした。宿泊施設もほぼないなか、ウェストンは地元の猟師や木こりを道案内に雇い、藪をかき分けて山頂を目指しました。この時代の登山は、現在とは比較にならないほど危険で過酷なものだったのです。

名ガイド・上條嘉門次との出会い

ウェストンの登山人生を語るうえで欠かせない人物が、上條嘉門次(かみじょう かもんじ, 1847〜1917)です。上高地に生まれ育った嘉門次は、猟師として山を知り尽くした人物でした。

1893年(明治26年)、ウェストンは槍ヶ岳への登山で嘉門次をガイドとして雇います。この出会いが、両者の運命を変えました。

嘉門次は卓越した体力と方向感覚を持ち、天候の変化を読む力にも優れていました。ウェストンは彼の能力に深く感銘を受け、著書のなかで嘉門次のことを何度も言及しています。嘉門次もまた、西洋式の登山技術や山に対する姿勢からウェストンに学ぶものがあったとされています。

2人のパートナーシップは、ウェストンが日本を離れるまで続きました。現在、上高地には嘉門次小屋が残り、嘉門次の功績もまた語り継がれています。

世界に伝えた日本の山——著書の衝撃

1895年に一時帰国したウェストンは、翌1896年に『Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps(日本アルプスの登山と探検)』をロンドンで出版しました。この本こそが、日本の山岳を世界に知らしめた歴史的な一冊です。

本書では、ウェストンが日本の山々で体験した登山の記録が生き生きと綴られています。急峻な岩壁との格闘、地元の人々との交流、山中の温泉での休息、そして頂上から見渡す壮大な眺望——これらの描写が、西洋の読者に日本の山岳の魅力を初めて伝えました。

「日本アルプス」という呼称

飛騨山脈・木曽山脈・赤石山脈を総称して「日本アルプス」と呼ぶ慣習は、ウェストン以前から存在しました。1881年にイギリス人鉱山技師のウィリアム・ゴーランドが初めてこの呼称を使い、その後イギリス人化学者のアーネスト・サトウもこの表現を用いています。

しかし、この名前を世界的に広めたのは、間違いなくウェストンの著書でした。本の題名そのものに「Japanese Alps」を冠したことで、欧米の登山家や旅行者のあいだに一気に認知が広がりました。ウェストンは「日本アルプス」の名付け親ではありませんが、その名を定着させた最大の功労者といえるでしょう。

ウェストンはその後も『The Playground of the Far East(極東の遊び場)』(1918年)『A Wayfarer in Unfamiliar Japan(見知らぬ日本の旅人)』(1925年)など、日本に関する著書を複数出版しています。

日本山岳会の誕生とウェストンの貢献

ウェストンの功績は、著書を通じた情報発信にとどまりません。彼は日本における近代的な山岳団体の設立にも深く関わりました

ウェストンは英国山岳会(アルパイン・クラブ)の会員であり、組織的な登山活動の重要性を熟知していました。日本にも同様の団体が必要だと考えたウェストンは、日本の登山愛好家たちに山岳会の設立を働きかけます。

ウェストンの影響を受けた文学者・小島烏水(こじま うすい)が中心となり、1905年(明治38年)に日本山岳会が設立されました。これは日本初の本格的な山岳団体であり、現在も日本最大の山岳団体として活動を続けています。

日本山岳会の設立は、日本の登山が信仰や修行としての「登拝」から、スポーツ・レジャーとしての「近代登山」へと転換する大きな節目でした。ウェストンは、この転換の触媒となった人物なのです。

2度目・3度目の来日(1902〜1915年)

ウェストンは生涯で3度にわたって日本に滞在しました。

合計すると約15年にわたる日本滞在でした。

妻フランシスの槍ヶ岳登頂

3度目の来日に同行した妻フランシス・ウェストンもまた、登山に情熱を持った女性でした。1913年(大正2年)、フランシスは外国人女性として初めて槍ヶ岳に登頂したとされています。夫妻で山を楽しむ姿は、当時の日本人にも新鮮に映ったことでしょう。

ロッククライミングの先駆け

また、1904年(明治37年)には、ウェストンは鳳凰山の地蔵岳オベリスクで日本初のロッククライミングを試みたとされています。宣教師でありながら岩壁に挑む姿は、「山に登ること」そのものに価値を見出す近代登山の精神を体現していました。

ウェストンが遺したもの

1915年に日本を離れたウェストンは、イギリスに戻って牧師としての活動を続けながら、日本に関する執筆を続けました。日本への貢献が認められ、1937年(昭和12年)に勲四等瑞宝章を受章しています。

1940年(昭和15年)3月27日、ウェストンは78歳で脳溢血のため亡くなりました。第二次世界大戦の最中にあり、日英関係が緊張していた時期でしたが、彼が日本の山岳文化に残した足跡は消えることがありませんでした。

ウェストン祭——毎年6月の感謝の集い

ウェストンの功績を讃えて、毎年6月の第1日曜日に上高地で「ウェストン祭」が開催されています。梓川沿いに立つウェストンのレリーフの前に多くの登山者が集まり、献花や山にまつわる講演が行われます。

このレリーフは1937年に設置されたもので、日本山岳会が中心となって建立しました。上高地を訪れた際には、ぜひ足を止めて、日本の山を世界に伝えた英国人宣教師の横顔を眺めてみてください。

現代への影響

ウェストンがもたらした影響は、100年以上が経った現在も色あせていません。

まとめ

ウォルター・ウェストンは、宣教師という立場で来日しながら、日本の山に魅了され、その魅力を世界に発信した稀有な人物でした。

上高地を訪れる際には、ウェストンのレリーフに立ち寄り、明治の日本の山を駆け巡った英国人宣教師に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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