剱岳「点の記」——1907年、測量隊が挑んだ「登頂を拒む山」の謎

剱岳「点の記」——1907年、測量隊が挑んだ「登頂を拒む山」の謎

富山県、北アルプス北部にそびえる剱岳(2,999m)は、岩と雪に鎧われた峻険な姿から、古くは「登ってはならない山」として恐れられてきました。その剱岳に近代測量の手が初めて入ったのが、1907年(明治40年)の陸地測量部・柴崎芳太郎隊です。

苦闘の末に頂へ立った隊員たちが、そこで目にしたのは——千年以上前に誰かが登っていたことを示す、一本の錫杖頭でした。新田次郎の小説、そして映画『劒岳 点の記』でも描かれたこの物語は、日本の登山史でもとりわけ胸を打つエピソードです。

「劒岳 点の記」とは何か

「点の記(てんのき)」とは、三角点の所在地や設置の経緯を記録した、測量の公式文書です。明治時代、近代国家として正確な地図を作ることは、国防にも産業にも欠かせない事業でした。陸地測量部(現在の国土地理院の前身)は、全国の山々に三角点を設け、日本全土を覆う測量網を完成させようとしていました。

その地図にぽっかり空いた最後の空白のひとつが、剱岳でした。「誰も登れない」とされたこの山の頂を測ることが、若き測量官・柴崎芳太郎に課された任務だったのです。

地図の最後の空白を埋める仕事

剱岳には、現在のような整備された登山道も、鎖場(くさりば: 鎖を頼りに登る岩場)の安全設備もありませんでした。柴崎隊は地元の案内人である宇治長次郎(うじ・ちょうじろう)らの力を借り、雪渓や岩場を手探りで探りながら、登れるルートを探し続けます。

幾度もの偵察の末、長次郎が見いだした雪渓ルートが突破口となりました。この功績をたたえ、剱岳の主要な雪渓は今も「長次郎谷(ちょうじろうだに)」と呼ばれています。山を切り拓いたのは、肩書ではなく現地を知り尽くした人々の知恵でした。

山頂で見つかった錫杖頭の謎

1907年、隊はついに剱岳の頂に立ちます。「前人未到」と信じて登った山頂で、彼らを待っていたのは衝撃的な発見でした。そこには古い錫杖頭(しゃくじょうとう)と鉄剣が遺されていたのです。

錫杖は修験者(山岳修行を行う僧)が携える法具です。その後の調査で、これらの遺物は奈良時代後期から平安時代初期のものと推定されました。つまり千年以上も前に、修験者がこの「登れない山」の頂に立っていたことになります。近代測量の最先端をもってしても「初登頂」ではなかった——この事実は、隊員たちに深い感慨を与えました。

剱岳は現在も一般登山道のなかで難易度の高い山です。カニのタテバイ・ヨコバイと呼ばれる岩場の鎖場が連続し、滑落事故も起きています。挑む際は十分な岩稜歩行の経験と装備を整え、不安があればガイドの同行を検討してください。

三角点を置けなかった頂

苦労して登頂したものの、剱岳の険しい山頂には、重い資材を運び上げて本格的な三角点(高精度の測量基準点)を設置することができませんでした。隊は四等三角点にあたる簡易な観測でこの地点の位置を記録します。

そのため剱岳の標高は長く「2,998m」とされてきましたが、約100年後の2004年、ようやく山頂に三等三角点が設置され、測量し直された標高は2,999mとなりました。あと1mで3,000mに届かないこの数字も、剱岳という山の物語性を一層引き立てています。

剱岳が今に伝えるもの

柴崎隊の登頂は、日本山岳会が誕生した1905年のわずか2年後の出来事でした。ウェストンが日本アルプスの魅力を世界に伝え、近代登山が芽吹いていく——剱岳の測量初登頂は、その黎明期を象徴する一幕です。

毎年7月13日前後は、測量隊が剱岳の頂に立った季節にあたります。GPSも軽量装備もなかった時代に、地元の案内人とともに「登れない山」へ道を刻んだ人々。そして、その千年前にすでに頂へ至っていた名もなき先人。剱岳に登るとき、足元の岩には幾重もの時間が積もっていることを、少しだけ思い出してみてください。

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