アンナプルナ初登頂——人類が初めて立った8000m峰、1950年の代償

アンナプルナ初登頂——人類が初めて立った8000m峰、1950年の代償

標高8,000メートルを超える山は、地球上に14座しかありません。その「デスゾーン」に人類が初めて足を踏み入れたのはいつか——答えは、エベレストでもK2でもなく、1950年6月3日のアンナプルナでした。

フランス隊を率いたモーリス・エルゾーグと、ルイ・ラシュナル。ふたりが頂に立った瞬間は、登山史の扉を開く偉業でした。しかし下山後に待っていたのは、凍傷で次々と切断されていく指と足の指。アンナプルナ初登頂は、栄光と代償が表裏一体だった「8000m時代」の幕開けを象徴しています。

8000m峰が「最後の空白」だった時代

20世紀前半、世界の高峰のうち極地と並ぶ「最後の地理的空白」とされていたのが、ヒマラヤとカラコルムの8000m峰でした。エベレスト、K2、カンチェンジュンガ——名だたる巨峰はことごとく人類の到達を拒み続けていました。

第二次世界大戦で中断していたヒマラヤ登山が再開し、1950年、ネパールがようやく外国隊に門戸を開きます。フランス山岳連盟はこの機を逃さず、国を挙げた遠征隊を編成しました。標的は当初、ダウラギリ(8,167m)かアンナプルナ(8,091m)のいずれか。どちらに登れるかは、現地に入ってから決めるという見切り発車でした。

地図のない山——アンナプルナ捜索行

現代の登山では考えられないことですが、当時のフランス隊が手にしていたのは精度の低い地図だけで、山の取り付き地点すら正確にはわかっていませんでした。隊はまずダウラギリを偵察しますが、難攻不落と判断。残された時間でアンナプルナへ方針を転換します。

問題は、そのアンナプルナへ至るルートが地図に存在しなかったことです。隊は谷を遡り、氷河を渡り、文字どおり「山を探す」ことから始めました。モンスーンの到来が迫るなか、北壁にようやく登攀可能なラインを見いだしたのは、遠征も終盤に差しかかった5月のことでした。

アンナプルナはサンスクリットで「豊穣の女神」を意味します。麓に実り豊かな土地を抱く一方、山そのものは8000m峰のなかでも死亡率が高いことで知られ、現在も「最も危険な8000m峰のひとつ」とされています。

1950年6月3日、頂上への賭け

モンスーンによる降雪が始まるまで、残された時間はわずかでした。エルゾーグとラシュナルは、酸素ボンベを使わずにアタックを決行します。当時は8000mで人体がどこまで耐えられるか、医学的にも未知の領域でした。

深い新雪に足を取られながら、ふたりは高度を上げていきます。ラシュナルは凍傷の悪化を恐れて何度も引き返しを提案しましたが、エルゾーグは前進を選びました。そして現地時間の午後2時頃、ふたりはアンナプルナの頂に立ちます。人類が初めて到達した8000m峰の山頂でした。

エルゾーグは感極まり、フランス国旗を掲げて写真を撮ることに時間を費やしました。しかしこの数分の遅れが、のちに重い代償となって返ってきます。手袋を外したことが、彼の手を凍傷へと追い込んだのです。

栄光の代償——凍傷との下山

下山は、登頂以上に過酷でした。エルゾーグは手袋を雪に落として失い、素手をさらしたまま下降。ラシュナルは滑落し、ふたりはクレバスでのビバークや雪崩に巻き込まれながら、仲間に救出されていきます。

モンスーンの豪雨と泥濘のなか、隊は担架でエルゾーグを運び、命からがら帰還しました。栄光の代償はあまりにも大きなものでした。

アンナプルナが遺したもの

帰国後、エルゾーグが著した遠征記『アンナプルナ——最初の8000m峰』は世界的なベストセラーとなり、戦後ヨーロッパの若者たちに登山熱を広げました。冒頭の一文「人生にはアンナプルナがいくつもある」は、困難への挑戦を象徴する言葉として今も引用されます。

アンナプルナ初登頂は、3年後のエベレスト(1953年)、4年後のK2(1954年)へと続く8000m峰初登頂ラッシュの号砲でした。同時に、酸素なし・薄い装備・未知の医学という条件のもとで人体が払う代償の大きさを、登山界に刻みつけた遠征でもありました。

毎年6月3日は、人類が初めて8000mの空気を吸った日です。最新の装備と情報に守られた現代の私たちが山に向かうとき、地図のない山を探し当て、指と引き換えに頂を踏んだ先人がいたことを思い出してみてください。山に登る意味を、少しだけ違う角度から見つめ直せるはずです。

YAMATOMOで山の仲間を見つけよう

ベースキャンプ、コミュニティ、ガイド依頼など、山を楽しむための機能が充実。

App Store