ナンガ・パルバット初登頂——ブール単独行、41時間の死闘

ナンガ・パルバット初登頂——ブール単独行、41時間の死闘

8000m峰の初登頂はほぼすべて、大規模な遠征隊が段階的にキャンプを積み上げて達成されました。ところがただ一座だけ、最後の頂上アタックをたった一人で成し遂げた山があります。ナンガ・パルバット——そして、その男の名はヘルマン・ブールです。

1953年7月3日。仲間が引き返すなか、ブールは単独で前進を続け、無酸素で標高8,126メートルの頂に立ちました。下山では立ったまま夜を明かすビバークに耐え、登頂アタックに費やした時間は実に41時間。これは登山史に残る、孤独と意志の物語です。

「キラー・マウンテン」と呼ばれた山

パキスタン北部にそびえるナンガ・パルバットは、世界第9位の高峰でありながら、初登頂までに最も多くの命を奪った8000m峰として知られていました。その異名は「キラー・マウンテン(人喰い山)」

1895年、イギリスの名クライマー、アルバート・F・ママリーがこの山で消息を絶ちます。さらに1930年代にはドイツ隊が相次いで挑み、雪崩や悪天候で隊員とシェルパ・ポーターを含む多数の死者を出しました。初登頂前にこの山で命を落とした人の数は31名にのぼったとされ、ナンガ・パルバットは「ドイツ人の宿命の山」とも呼ばれていました。

1953年ドイツ・オーストリア隊の挑戦

1953年、カール・ヘルリヒコッファーが率いるドイツ・オーストリア合同隊が編成されます。隊員のひとりが、オーストリア・インスブルック出身の若き俊英ヘルマン・ブールでした。彼はアルプスで数々の困難な単独登攀を成功させ、卓越した持久力と精神力で名を馳せていました。

隊は順調にキャンプを進めますが、最終アタックの直前、天候判断をめぐって隊長と現場の登山家たちの意見が対立します。隊長は撤退を指示する無線を送りますが、好機を逃したくないブールたちは前進を選びました。

7月3日、隊長命令に背いた単独行

7月2日未明、ブールは仲間のオットー・ケンプターとともに最終キャンプを出発します。しかしケンプターは途中で力尽き、引き返しました。残されたブールは、ただ一人で頂上を目指す決断を下します。

覚醒剤の一種ペルビチンを携え、酸素ボンベは使わず、ピッケルとわずかな装備だけ。灼けるような日差しと薄い空気のなか、ブールは想像を絶する持久戦を続けます。そして7月3日午後7時頃、彼はついにナンガ・パルバットの頂に立ちました。頂上にチロル地方の旗を結びつけたピッケルを残し、写真を撮って、すぐに下山へ移ります。

立ったまま越えた夜——奇跡の生還

下山中に日が暮れ、ブールは標高8,000m近い岩場で動けなくなります。テントも寝袋もないまま、彼は狭い岩棚に立ち、わずかな手がかりを握ったまま夜を明かしました。「立ったままのビバーク」——8000m級の高所で、これは生還が奇跡に近い状況です。

幸運にも風のない夜だったことが彼を救いました。翌朝、ブールは凍傷を負いながらも自力で下降を続け、心配して登ってきた仲間と再会します。登頂アタックに出てから戻るまでに費やした時間は約41時間。最終キャンプにたどり着いた彼の姿は、数日で何歳も老け込んだようだったと伝えられています。

高所での単独行や命令系統を離れた行動は、現代の遠征では極めて慎重に扱われます。ブールの登頂は驚異的ですが、ひとつ条件が違えば帰らぬ人になっていた紙一重の挑戦でもありました。山では「引き返す勇気」と「自分の判断を最優先する姿勢」の両方が、命を守ります。

賛否を呼んだ偉業の意味

ブールの単独登頂は世界を熱狂させた一方、隊長ヘルリヒコッファーとの間では、撤退命令への違反や栄誉の帰属をめぐって長く法廷闘争にまで発展しました。偉業の陰には、組織と個人の意志がぶつかり合う生々しいドラマがあったのです。

それでもヘルマン・ブールが示したものの大きさは揺らぎません。彼は1957年、ブロード・ピーク(8,051m)を酸素ボンベも高所ポーターも使わない「アルパインスタイル」で初登頂し、のちのメスナーらに連なる軽量・自立型登山の先駆けとなりました。その数週間後、近くのチョゴリザで雪庇を踏み抜き、32歳で帰らぬ人となります。

毎年7月3日は、一人の人間が極限の孤独のなかで「キラー・マウンテン」を制した日です。大人数で固める安全と、単独で背負う自由——登山が抱え続けるこの問いを、ブールの41時間は今も私たちに投げかけています。

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